言い出しっぺのオマエこそ、姥捨て山へレッツゴー!だよ。





うちの息子が通う小学校は、創立何年だかよく分からないくらいの、古〜い学校です。沿革史を読んでも、一番最初が ”文化の始め” と書かれているだけで、はっきりしたことはわかりませんが、まぁ、とにかく江戸時代に開かれた塾が前身となっていて、たぶん創立130年とか140年とか、そんな感じです。


さて、そんな古い学校なのですが、その校庭には、これまたいつの頃に植えられたものかは判然としないのですが、立派な松の老木が1本立っています。
この松、『がんばり松』 というニックネームがついていて、何十年もの間、子供達の成長を見守ってきました。なにかにつけて 「がんばり松に集合してください」 とか 「がんばり松で待っててね」 という具合にすっかり子供達の学校生活に溶け込んでおり、学級の集合写真も、毎年がんばり松の前で撮影されます。


言うなれば、小学校のシンボル的存在なわけですね。


ところが、このがんばり松を移転 (でいいのか?移植か?わからん・・・・) させようという話が持ち上がりまして。


第一に、この松の生えている場所に問題がある・・・・と。
この松が生えているのは、朝礼台のあたりで、トラックのすぐ脇。この松さえなければ、校庭をもっと有効に使えるから、ということらしいです。


そしてもうひとつの理由があるのですが・・・・


松っていうのは、移転が難しいんですか?月下にはよく分かりませんが、なんでも、このがんばり松、既にかなりの樹齢らしく、弱ってきているので、そう遠くない未来、枯れてしまうかもしれない、とのこと。ましてや、移転などさせたら間違いなく枯れてしまうだろう、というのが専門家の意見でして。


そこで飛び出してきたのが、『遅かれ早かれ枯れてしまうのなら、移転して枯れてしまっても、仕方がない』 という奇妙なロジック。


どう思います?みなさん。


一つ目の理由に関しては、理解できないでもありません。
しかしそれでも、今までずっと、そこにがんばり松が生えている状態で、学校行事も授業も滞りなく行われてきたわけだし、これから先、生徒数がドッと増える見通しでもあるならまだしも、少子化の現代そんなわけもなく・・・・


・・・・となると、既にそこにあるものを、無理矢理にでも移転させようとする理由としては、説得力がに欠けますよね。


月下が驚いたのは、二つ目の理由の方です。


”年老いて、弱ってきたから、もう死んでしまってもかまわないですよね?どうせ邪魔だし、この際、処分しちゃいましょう” ・・・・っていうことなわけですよね?


歳月を経て年老いたものを敬い、労わることを子供達に教えてしかるべき教育の現場が、ケチ臭い利便性ばかりを追いかけて、こんな 【姥捨て山的発想】 を持ち込むとは、驚きです。


若く、健康で、勢いのあるものでも、いつかは衰え、死に、朽ちてゆく・・・・それは、自然の理です。しかしそれは、言葉で説き、頭で理解させるものではなく、子供達が自分の目で見て、触れて、肌で感じて得たその実感こそが大切なのだと、月下は思うのですが・・・・どうなんでしょ。


いつも見慣れていた、頑強であったはずの松の老木。その葉が茶色くなり、枝が脆くなっていく様を見ながら、命あるもの、みな衰え、死んでいくのだということを、心のどこかに刻み付けて成長していく事は、子供達にとって無意味なことではないと思うんですけどね。


大体、胸を張って子供達に説明できるんでしょうかね?
『がんばり松は邪魔だったし、もう枯れそうだったので、敷地の隅に引越しさせました。ちなみに、引っ越したせいで、もうすぐ枯れます。』 


・・・・月下は言えない。


「いいんじゃないの?枯れるまで、あそこで天寿を全うさせてあげたら。
移転?ないでしょ〜・・・・っていうか、そんなこと言い出した人、誰?ねぇ、誰よ?」


月下の、今にも言い出しっぺを吊るし上げて、ボロクソにやり込めそうな気配を察したかどうかは分かりませんが、「僕です」という勇気ある人はいませんでした(笑)。


こうして、突如浮上した 『がんばり松・姥捨て山的移転計画』 は、とりあえず頓挫したのですが、今後どうなるか?・・・・ちょっとわかりませんねぇ。


しかしできることなら、最期の最期、本当に切り倒さなくてはならなくなるその日まで、がんばり松には、あの場所で子供達を見守っていて欲しいと思います。





祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す・・・・