楽石雑筆 3
筑波嶺季誌――春のたより――
ことし3月1日、筑波山に雪が降った。ケーブルカーが定期点検のため1日から6日まで運休で、門前から杖を突いて神社の正面階段を登ってきた参拝者の一群は、参拝が済むと山頂にも行けず、杖を手にして雪の積もりはじめた女坂を下っていった。
ことしは雪が多いそうである。1月8日の大雪は夜まで続いたが、9日の朝は晴れて、単身赴任の私は、出勤のため5時に起きて弁当をつくり、朝食を済ませて6時半に、真壁町に近い上大島の社宅を出た。もと筑波鉄道の軌道敷が自転車専用道路となり「リンリン道路」と呼ばれているまっすぐな道を、私は長靴をはいて、今は乗合バス専用の筑波駅を目指して歩いていった。途中犬が横断した足跡ぐらいしか見当たらない新雪の上を、キュッキュッと音をたてて歩くのは気持ちの良いものであったが、15センチ近い積雪は体力を消耗させるのにも十分であった。
やがて駅のある沼田という集落に入り、コンビニエンスストアーで温かなコーヒーを求めて小休止した。家を出てから30分過ぎていた。
沼田から登りとなる。車道から旧登山道に入ると、やはり足跡のない新雪の道であったが、雪の量は少く、7・8センチの積雪で、雪折れの枝が散乱し、1ヶ所は電線を切って径30センチほどの杉の木が道路をふさいでいた。
標高270メートル。中腹の筑波山神社社務所までは更に50分かかった。もっとも雪の中の赤い鳥瓜や、山頂の二峯と眼下の平野を眺めながらの登山ではあったが、最後の1キロでは息が切れ、汗がでた。
その後、12日と15日の成人式の日に降り、2月の15日に降った。この雪は春の雪で重く、1月の雪に耐えた社務所前の老椎を倒し、石垣を崩した。
2月下旬から、筑波山は微妙に変化しはじめた。山の色が山麓部分から紫がかって見えるようになってきた。柔らかな薄紫である。山頂部分がまだ堅い感じなのは、ブナ林の葉を落とした枝の故であろうか。
宿直の翌朝、5時頃掃除にかかると啄木鳥(キツツキ)が樹幹を叩く「コ、トトトトト」という音が聞こえてくる。雀(スズメ)たちも早起きで、拝殿脇の赤宮(アカミヤ)に供える初穂が待ち遠いらしく、宮前のヒサカキの枝で「チッチッ」と鳴き交している。
赤宮へは9時前に拝殿の日供が終わったあと、小皿に米を盛り水を替えて参拝するのであるが、太鼓を叩きはじめる頃にはお供えの初穂米はあらかた消え失せている。
筑波の太鼓は鹿島神楽(カグラ)の系統を受けているが独自のもので、大拍子(ダイビョウシ)という鼓と合せ打ちをする。鹿島神宮では大正頃、鹿島神楽から岡宮司創案の御稜威(ミイヅ)流に変わった。音痴に近い私は、ようやく1年かかって筑波の太鼓らしいものが打てるようになった。
それでも油断して、あいさつなどの考え事をしていると御稜威流に変わっていたりして恥ずかしい思いをする。
筑波山は観光地である。そして、つくば市は研究学園都市である。しかし、筑波山の山麓一帯は純然たる農村であり、いまでも毎朝、山から《さらい木》を篭一杯に積めたのを背負って降りる農業婦人に行き逢い、田うないに出る耕運機を追い越したりしている。
筑波山麓の桜川に至る間の水田から収穫する米は「筑波米・北条米」として実に味が良い。江戸時代にはかなり高価で取り引きされたと伝え、いまも高級な寿司店が直接取り引きしているそうである。
昨年3月20日過ぎに訪れたとき、ゐのししの話がでていたことを思い出す。いちばん先に話すのは郵便配達の原さんだそうで、バイクで毎日走っていると衝突しそうになったこともあるという。民家の石垣の下の草群などにゐのししの通り道があって、4月にはウリ坊という子どもゐのししをなん匹か連れた母ゐのししが通るそうで、「どこそこの家の畑の垣根が破られて、作物を食べられた」という話題が出廻ることとなる。
いま、日毎に桜の蕾(ツボミ)がふくらんできている。そして、神社の正面階段の脇には蕗のとうがすでに開ききり、虫たちの働きも活溌で、空をゆく雲も春のたよりを乗せてきているようである。私にとっても2年目のつくばの春が訪れようとしているのである。
平成10年3月20日記
矢作幸雄
