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■現在の祭頭祭
毎年3月9日に行われる
祭頭祭
は、年間80回を数える鹿島神宮の行事でも最も規模が大きく。勇壮な祭典です。
午前10時、昨年の
春季祭
で当番に
ト定
された左方右方両字の大総督が狩衣装で家族役員に護られながら昇殿し祭頭際が厳かに執行されます。
祭頭祭が終わると、大総督はじめ両字の人々は本陣に定めた旅館等へ引き上げ昼食をとって休憩した後、午後1時頃から参道で祭頭囃を囃はじめます。
人数は奉仕字の大小によって多少違いますが、150名から300名位で、役員は陣笠、羽織袴、囃人は色鮮やかな祭衣、華やかな
襷
を数本背にかけて、約二メートルの樫の棒を持ち、太鼓の音に合わせて、棒を組んではほぐしほぐしては組みながら囃歌を唱えて進みます。
1隊15名ばかりが円陣を組み、この隊が10組から20数組と列となり、バレン、太鼓叩きのリズムによって演舞する姿は勇壮そのものです。
大総督は常に囃の先頭に立ち、町役員に誘導されて進みますが、甲冑姿の五才くらいの凛々しい姿が人々を惹きつけます。
こうして囃し終わるとまた本陣に戻り、午後6時の春季祭再び狩衣装で参列します。
この春季祭がト定の神事で、
神ト
によって来年の当番2字が決まり、物申神職は拝殿に立って『来る平成○○年春季祭当番、神慮を以ってト定侯字、左方(右方)の大頭、大字、○○』と大音声に読み上げます。
ト定されると鹿島の大神は降神祭を通して約1年の間その大字をみそなわし
安寧
と
弥栄
をもたらします。
この信仰の下に、1年をかけ丹精をこめた祭頭囃の奉納がその報祭として執り行われるのです。ここにこのお祭りの大きな意義があります。
■祭頭祭の歴史
祭頭祭の起原は奈良時代の天武朝とも平安時代とも諸説がありますが、文献として遡りうるのは建仁四年(1204)でこの時は、片野・長保寺と平井・宝持院が祭の頭人を勤めています。
祭頭祭というと今ではすっかり『
防人
の祭り』とされて一人歩きしておりますが、この説の起こりは実は昭和7年以降のことであり、富国強兵策をとっていた当時を反映した1つの解釈でした。祭頭祭の祖形はその囃言葉からも
窺
えますように五穀豊穣、天下泰平を主な願意とする祈年祭に近く、しかも地域に密着した祭りでした。現に明治初期の茨城県への進達書には祭頭祭を『祈年祭』と規定しています。明治までの神仏
混淆
時代では2月15日の釈迦入滅の
常楽園
に習合し、その名残から男子の大総督を今でも「
新発意
」と表現しています。更に武神としての鹿島の大神の御神徳とも結び、勇壮な棒祭り要素から『
悪路王
退治の余風』という解釈が為されていた時代もあります。
これが更に飛躍して昭和はじめの防人説へと結びついていったのでした。
従って、明治の神仏分離が進んだ時点で、祈年祭の復活と共にこれに組み入れられていった
祭頭祭の姿にこのお祭りの本質を見て取る事ができるように思われます。
明治6年(1873)の太陽暦への移行によってそれまでの2月の
上
の
申
の日から現在の3月9日に改められました。
昭和51年12月には文化庁から国選択無形民俗文化財の指定を受けています。
■祭頭祭特殊用語あれこれ |
抽籤字
御当の
籤
に入った大字の事。前回当番より約二十年で入る。
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北郷南郷
鹿島神宮を中心に北の大字を北郷、南を南郷という。 |
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物 申
当番がト定した大字を担当する神職のこと。1年間祭事に関係する。 |
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降神祭
当番大字の鎮守に鹿島神宮の御分霊を1年合祀する祭典。 |
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大総督
一軍の将としてト定後に選ばれる5才前後の男児。
新発意
、又は小僧さまとも呼ばれる。 |
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御当寺
当番ト定の大字の寺、祭事事務所として充てられる。 |
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先陣
当番ト定を真先に大字に注進した者。
祭事で優遇されたが、電話の普及で今はすたれる。 |
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大豊竹
祭頭祭当日神前に立てられる根堀りの真竹、1年を通じて注連をかけ大切に育てられる。 |
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棒揃え
最終的な練習と棒数の確認を行う行事。 |
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廻り祭頭
鎮守の杜をはじめ、大総督家、
または学校や大字内を囃し廻ること。 |
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本陣
祭頭囃の宿をいう。町内の旅館などを借り上げる。 |
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祭頭祭タイムスケジュール
予定時間 |
内 容 |
9:45 |
大総督着装(狩衣装)出立し、神事参列
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10:00 |
祭頭祭神事
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13:00〜
16:00頃 |
宮中区長会・小惣代を先導に出立、囃し始める
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18:00 |
春季祭神事にて左方・右方の当番字がト定される
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